約1000人もの人々が、東アフリカ・ウガンダのとある新興宗教団体の教会において、火災によって命を落としたという衝撃的な事件が起きた。この事件は、単なる事故ではなく、宗教的信念に基づく集団自殺、あるいはそれに近い大量殺人の疑いが濃厚とされており、その死亡者数は世界的な歴史の中でも最大規模の宗教関連大量死の一つとされている。この信者たちが命を落とした背景には、絶望的な社会状況、信仰への渇望、そして一部の人物による巧妙かつ冷酷な操作が複雑に絡み合っていた。
当初、事件についての報道は日本国内では非常に限られており、その深刻さがあまり知られていない。しかしながら、キリスト教の影響が強く、宗教的信念が人々の生活に深く根付いている多くのアフリカ諸国、特にウガンダ国内においては、この事件は連日メディアのトップニュースとして大々的に報じられていたという。地元住民の中には、自身の親族を失った者も多く、町のいたるところで喪に服す姿が見られたという証言もある。
注目すべきは、事件後も依然として教団の教祖であるヨセフ・キブウェテレの遺体が見つかっていない点である。ウガンダ当局によると、教祖が焼死した可能性もゼロではないが、事件直前に信者たちの財産や現金、家畜までも持ち去ったとの証言が複数存在しており、国外逃亡の可能性が高いと考えられている。これが事実であれば、教祖は信者の信仰心を利用し、最後の瞬間に自身だけが生き延びたことになる。
この事件を引き起こした宗教団体の名は、「神の十戒の復活のための運動(The Movement for the Restoration of the Ten Commandments of God)」とされており、その設立は1989年頃まで遡る。教祖であるキブウェテレは、かつてカトリック教会の敬虔な信者であり、一時は教会での活動にも深く関わっていた人物だったという。しかし、彼が「聖母マリアとイエス・キリストから直接啓示を受けた」と主張し始めたことで、カトリック教会からは異端とされ、最終的には破門処分となり、その後、自らの教団を立ち上げたという経緯がある。
宗教的啓示の内容は非常に終末論的であり、特に1999年末には、「世の終わりが来る」という預言が信者たちの間で大きく広まった。教祖によれば、大多数の人類は1999年の終わりに死に絶え、その後に来る新たな世界では、信仰心ある者だけが生き残り、新しい神の国を築くとされた。信者たちは、度重なる説教や「奇跡」と称される出来事を通じてこの預言を信じ、生活のすべてを教団に捧げるようになっていった。
ウガンダという国は、1970年代から続く政治的混乱と経済破綻の影響を強く受けてきた国である。アミン大統領の時代には、反政府活動家を中心に30万人以上が殺害されたとされ、国家としての秩序と倫理は崩壊の一途を辿った。さらに、政権が転覆するたびに国民は混乱と不信に晒され、政治に対する信頼は完全に失われた。そのような背景から、宗教や霊的な世界に救いを求める人々が急増していったのである。
加えて、エイズの蔓延や繰り返される自然災害(干ばつや洪水)なども、国民にとっては未来に希望を持つことを著しく困難にさせていた。成人の10%以上がHIVに感染していたという報告もあり、村々には孤児となった子どもたちが溢れていた。こうした状況下では、伝統的な教会や政府といった権威を否定し、まったく新しい精神的世界観を打ち出す教祖の言葉が、人々の心に強く響いたのは想像に難くない。
そしてウガンダには、キブウェテレの教団以外にも、さまざまな新興宗教が乱立していた。北部では、「神の抵抗軍」と呼ばれる武装組織がキリスト教的イデオロギーを掲げて少年兵を育成し、政府に武力で対抗するという事例もあった。一方、西部ではイスラム過激派による反政府活動も活発であり、宗教は時に信仰というよりも、政治的な手段として利用されるようになっていた。
そのような混沌とした宗教環境の中にあって、「神の十戒の復活のための運動」は比較的穏健で平和的な存在として、一時的に政府からも公認される宗教法人として活動を許されていた。教団は、信者の生活を支える共同体のような機能も果たしており、食料や衣服の配給、孤児の保護なども行っていたとされる。
教団が建設を進めていた新しい教会の完成記念式典が、事件発生の直前となる3月18日に予定されており、その準備のため、全国各地から多くの信者が本部施設へと集まっていた。教祖の語った「その日が最後の日である」とのメッセージに従い、信者たちは家族を連れてやって来た。多くの者は、自分たちが神の祝福を受けて、新たな世界に導かれると信じて疑わなかった。
事件の前日、3月17日の朝には、教祖自らが集まった信者たちに対し、丘の上の集会所で長時間にわたる説教を行った。内容は終末と救済についてであり、「この世の混乱と悲しみは、今夜で終わる」と語られたという。その場には涙を流す者や、天を仰ぎ手を合わせる者も多く、異様な熱気に包まれていたとの証言がある。
その数時間後、信者たちは完成したばかりの教会堂へと移動し、全員が中に入った。そしてまもなく、建物全体が爆発的な炎に包まれた。あまりにも激しい火災であったため、現場に急行した消防隊は何もできず、教会にいた者たちは一人も生き延びることができなかった。
後に判明したのは、この教会にはあらかじめいくつものガソリンタンクが巧妙に設置されており、建物の構造自体が「焼却」を目的としていた可能性があるということである。上級幹部が事件数日前に「自家発電機の燃料が必要」として、近隣の村の商店から大量のガソリンを購入していたという記録も残っていた。つまり、計画的かつ緻密に準備された「儀式的な大量殺害」だった可能性が高いのである。
信者の多くは、この教会で死ぬために集まったのではなく、むしろ外界で予言された終末的な破滅から逃れるため、神の加護を求めてここに避難してきたと信じていた。その純粋な信仰心が、結果として命を落とすという最大の悲劇へとつながった。
事件後、当局が教祖の私邸を捜索したところ、屋外トイレの穴から6体の死体が発見された…