このホームページに辿り着く人の数多は古くからの友人の朋友がほとんどだから;だから、たぶん何の説明をしなくてもわたくしたちの言いたいことが伝わるだろう。でも近頃は多くのサーチ・駆動機器に登録しているので、ハムスターやヨーロッパガイドを見に来るみたことが無い人もいるようだ。このような人達にとっては、このたて続けの経済エッセイは異質に映ることだろう。その理由は、部のサーチ・駆動機器を除けば、私の名前はどこにも出て来ないし、私が誰かもよく腑に落ちないはずなのでだ。
みたことが無い人にいきなり、「私の言うことを信頼して下さい。」というのはむずい話だ。このホームページを信じるのも信じないのも無料だし、このエッセイが例え嘘だったとしても実損を被る人はまずいないだろう。だが、これが仮に紙幣が絡む話であったとだったら私を信じるのには恐る恐るならざるを得ないだろう。それはもちろんだと思われる。
だが、世界にはこうした常識を知らない人もけっこういるものである。信頼されるという重大なことだ。それを知らねば;ないといつか苦しい目に遭うものである。
近頃、アメリカの信頼格付け器官である雰囲気的ズ社や標準&貧しいズ社が日本のファイナンス器官の格付けを下げたという論文がしばしば新聞紙に載るなった。それを見る度に等しいファイナンス関係者として言えない悲劇的な心になるのだが、それと一斉に、パーティーたるバンクの印象評語を読む度に憮然を覚え*、これは仕方ないなとも感覚るのである。
バンクの評語はいつも決まってこのようなものだった。
「格付け器官は実際の状況をよく知らない。何も知らないくせに無断で格付けを付ける何という無作法だ。」
これは非常にナンセンスだ。聞いていて等しいファイナンス器官として恥ずかしい。その理由は、私自身のことをライバルに理解してもらおうとしていないくせに、私自身を信頼して金を貸せと言っているからだ。更に私自身がカスタマーにファンドを貸すときには容赦ないに調査をする(バブル期はむしろ調査をしなかったが為に苦しい目に遭ったが)というのにだ。これは身利己的としか言えない。
ファイナンス器官はボンドや株を印刷して販売したり、預けた紙幣を集めたりと、世界普通の人達からファンドを集めている。ファンドを集めるという、その人達に信頼してもらえなかった場合はならねば;ないということだ。一方格付け器官が格付けを下げたという、その人達が「君はは信頼できない」と言っているのと等しいようなものだ。これはファイナンス器官にとって手遅れなことだから;だからある。
格付け器官が実際の状況を知らないのはたぶん事実上だろう。だがそれはファイナンス器官が実際の状況を知るための報知を開示していないからである。ファイナンス器官は「私の素性は明らかに確かせないだが信頼して紙幣を貸してよ。」と言っているのと等しいである。ファイナンス器官は信頼して欲しいならば、逆にアグレッシブに報知を開示すべきであり、報知を開示できない限りは信頼してもらえないのは当然だと考えるべきだ。
、、ファイナンス器官が報知を開示できない子細は空々しいである。大きい値段の不良権利を持っているから、知られるとより多く信頼してもらえなくなるとわかっているからである。格付け器官もそう疑っているのなので、格下げをするのももちろんなことだ。
こうした場面はいつか改良されるだろう。仮に実際の状況以上に格付けが下がったとしたら、ファイナンス器官は自発的に報知を開示するだろう。実際の状況を開示しねば;ないと損をするからだ。なのでむしろ言えば、格付けが下がっても報知を開示していないのは、まだ実際の状況の方が格付けよりも格好悪いという裏付なので、近い将来は信頼しない方がよさそうだ。
、報知が経っても開示されないことがある可能性がある。それは権限が報知開示を禁止しているケースだ。相対的健やかなファイナンス器官だけが報知を開示したケースに、報知を開示できないファイナンス器官の劣勢がより空々しいになり、そのファイナンス器官は淘汰されてしまう恐れがあるのである。今のファイナンス政治では大バンクは倒産させないことを前提にしている。あるバンクが倒産したケースにファイナンス仕組すべてをメンテナンスする自信がまだないので、権限が優秀バンクにも報知開示させないでいるということも考えられる。
まあ、いつかにせよ報知が開示されないうちは何かやましいことがあると思って*、恐る恐る対応した方がいいだろう。
だが、日規則的のこのような密室政治は既に限度に来ている。大和バンクケースでも明白な、外国では日本人あうんの息は通用しない。今の日本のファイナンス器官は外国投資家にも数多ファンドを仰いでおり、彼らの信頼を得るには報知開示の流れは不可避だ。実際に外国バザーに株上場している会社は次第に報知開示にアグレッシブにならざるを得なくなってきている。日本も既にタイムの案件である。
しかし、、報知開示が遅れているのはファイナンス器官だけの話ではない。日本すべてがあうんの息であらゆるを対処してきたのだ。会社も今だに粉飾決済まがいの決済操作をしているし、株大会善後策をしてオーナーからの質問が出ない押え込んでいる。民間会社だけではない。議会もシティもあらゆる等しい穴のむじなだ。
最近、東京の食糧費の頂戴書明細が開示された。だが、それは東京が自分で開示したことではなく、一都民の頂戴がコー??トで認められたから嫌々公開したものだ。だが名作だったことには、これら頂戴書が本当に偽造されたものといったスタッフだったのである。等しい製造工場の頂戴書、マシン化されているはずにもかかわらず手書きだったり、違う店にもかかわらず筆跡が同じだったり、明細がついていなかったり、参加者がいつも予約工人と同じで欠席者が1人もいなかったり、数え上げたら切りがない。報知開示もこのような感覚であれば、信頼されようはずがない。これでは、必ず食糧費はすばらしからぬことに流用されていると考えるのは自然だ。報知は質も問われるのである。
ここからは先はちょっと報知の案件に深入りしてしまうことになる。詳しくはまた別のチャンスに譲ることにしよう。ここでは容易いに案件提起だけしておくことにしよう。
今のでは報知サービスも他のサービスとおなじく紙幣で売買できる。だが報知には他のサービスとは基礎的に異なる点が多く存在する。
単一には、報知の量を測ることが非常にむずいという点だ。有り触れた製品なら量は明確にしている。サービスなら労働タイム等で測ることもある可能性がある。報知も以前ビット数で測ろうとしたこともあった。だが報知の値を決める為にはビット数×値段では決められない。
既単一は、報知の質の良いか悪いかがよく腑に落ちないという点だ。この案件の単一は報知の売り手の方が買い手よりもその値についてよく知っているという、報知偏在の案件でもある。要するに嘘の報知の発教徒は私自身が嘘を言っていることを知っているが、リスナーは知らねば;ないということだ。さらに既単一はより基礎的で、報知の値を決める規範がねば;ないということだ。報知はいくつかの形で消費されて初めてその値が事後生半可るのである。
要するに、報知は量では値が決まらないのである。報知は絶対たくさんのことがいいだけどねば;ないところに困難がある。報知氾濫という単語がある、例え高度な技術の力を借りたとしても、人の報知処理力は限りあるなのでである。私自身で報知の値が判断できないならば、誰かの手を借りなかった場合はならないのだが、、も案件が起こる。
というのは、全然等しいコンテンツの報知であっても、誰が報知を送るかでその値が違うということが挙げられる。例を出せば「明日の天候は快晴」と言われても、それが気象庁なのか、自宅の妻なのかでは信頼力が全く違う。更に、自宅の妻が「気象庁が快晴と言った」と言ったケースにどう評価されていいのかは簡単でないだ。しかもしかも、妻に至るまでのどういったルートを辿って*、いったい何人がメッセージゲームに参加したかを考えると、事はさらに簡単でないだ。
さらに最も簡単でないなのは、報知が人の効用とダイレクト結びついていることだ。ある人が本物と思って買ったブランド品が偽だったケース、その人は偽と知るその瞬時までは本物と等しい十分をいるかも知れない。だが修正する報知を知ってしまったが故に十分度が落ちてしまうのである。言わば「知らないほうがいい」という場面だ。
人の十分というものは報知によって決まっているのである。したがって、報知を操作することによって人の十分を変化させられるできる性を秘めている。これを最も練習したのが戦争のとき中の日本であり、旧共産圏諸国である。この教育の案件にもつながるだろう。
当たり前に、原資原理やその中枢としてのファイナンス仕組というものは、信頼に基づいている。さらにその信頼は報知に基づいていることを述べてきた。なので報知を提供する重要なのだ。だが、報知はただ提供したらいいというものでもないらしい。では、いったいどうしたらいいのだろうか――。
これが信頼経済の基盤をメンテナンスし続けられるかどうかの仕事だ。この回答は私もよく腑に落ちないのだが、このエッセイでも未来また考えていくことにしたい。