資産運用分野においても、ファンド・マネージャーなどの社員の雇用条件や報酬体系は、会社やファンドの種類や規模、投資戦略や運用成績などによって異なることがあることを示唆する言い方で、そもそも制度とかシステムは、企業や社会が運営されるための仕組みやルールで、文化や歴史的な背景から切り離して決められるものではなく古いシステムから突然新しいシステムに移行できる性質のものでもない。
制度やシステムはその土地や時代に応じて発展してきたものであり、一朝一夕に変えることができなく、これが、近年の制度やシステムの経済理論のひとつの結論であった。
制度やシステムが経済活動や経済発展に与える影響を分析する経済学の分野が近年盛んに研究されており、その中で得られた知見の一つであったことを示し、日本的雇用システムはかつて成功した経験を持つだけになおさら急激に変わることは難しいだろう。
日本的雇用システムが高度成長期において日本企業の競争力や生産性を高めたことがあり、そのために人々がそのシステムに固執しやすく、急速な改革に抵抗する傾向が強く、人々は既存のシステムに対して慣性を持っており、人々は自分たちが長年慣れ親しんだシステムに対して安心感や忠誠心を持ち、新しいシステムに移行することに対して不安感や不満感を持ちやすく、しかし、実際には伝統的な資産運用会社では、その社員たちが自分の能力や努力に見合った報酬を受け取っているという確信や満足感を持てるようにするために、ファンド・マネージャーの報酬は運用成績の良し悪しによる単純な能力給であるケースは意外と少なくまた一年毎の契約更改とは言っても、その会社に長く勤めることで得られる経験や知識、人脈や信用などの無形の資産が大きな価値を持つことを認識しているからである、平均した勤続年数はかなり長いことが多いようだ。
このような資産運用会社の雇用形態は、顧客のニーズや市場の変動に応じて柔軟に対応できるようにするという観点からは必ずしも最適とは言えないかもしれないが、 これは資産運用というサービスにおいて顧客と会社の信頼感が重要であり、その信頼感を築くためにはファンド・マネージャーが安定したパフォーマンスを発揮し続けることが求められるだけでなく、顧客とのコミュニケーションや関係性の維持も不可欠であることを示している、その信頼感の中にはファンド・マネージャーの安定性・定着性もひとつの重要な要素として含まれているからだと思われる。
一方で、このような雇用形態は、ファンド・マネージャー自身にもメリットがあると言えるだろう。
彼らは自分の専門性やキャリアを高めることができるだけでなく、自分が運用する資産や顧客に対して深い関心や責任感を持つことができるからである、 ここが短期間の売買で収益を上げることだけを目標とされたディーラーの雇用とは大きく異なる点であり欧米と言えども、金融業界においても職種や業務内容によって雇用形態や報酬体系が異なっており、一概に同じ基準で評価することはできないことを示している、その職種によっては雇用形態が一様ではないことを示すものといえるだろう。
このような雇用形態や報酬体系の違いは、金融業界だけでなく他の産業や職種でも見られるものであり、それぞれの特性や文化に合わせて最適化されているものだと考えられる、 そもそも制度とかシステムは、人間が社会や経済を円滑に運営するために作り出したものであり、その背景には歴史的な経緯や文化的な要因が深く関わっていることを忘れてはならない、描写化や歴史的な背景から切り離して決められるものではなく古いシステムから突然新しいシステムに移行できる性質のものでもない。
新しい制度やシステムを導入するには、既存の制度やシステムに慣れ親しんだ人々の意識や行動を変える必要があり、それは容易なことではない。
また、新しい制度やシステムが必ずしも既存の制度やシステムよりも優れているという保証もなく、予想外の問題やコストが発生する可能性もある、 これが、制度やシステムに関する研究や分析を行う際には、単に理論的な観点からではなく、実際にその制度やシステムが機能する社会や経済の状況や条件を考慮することが重要であることを示している、近年の制度やシステムの経済理論のひとつの結論であった。
このような経済理論は、日本的雇用システムに対する見方や評価にも影響を与えている。
日本的雇用システムは、欧米型の雇用システムと比較して非効率的で非合理的であるという批判が多かったが、近年ではそのような単純な比較ではなく、日本的雇用システムがどのような歴史的な経緯や文化的な要因から生まれたのか、またその中でどのようなメリットやデメリットがあったのかという観点から分析されるようになってきている、 日本的雇用システムはかつて成功した経験を持つだけになおさら急激に変わることは難しいだろう。
日本的雇用システムは、高度経済成長期からバブル期にかけて日本経済の発展に大きく貢献した。
その中で、日本的雇用システムは企業と労働者の間に強固な信頼関係を築き上げ、労働者のモチベーションや生産性を高める効果を持った。
また、日本的雇用システムは社会全体の安定や平和にも寄与した。
失業率を低く抑えることで貧困や犯罪を防ぎ、長期的な視野で人材育成や技術開発を行うことでイノベーションを促進したからである。
人々は既存のシステムに対して慣性を持っており、そのシステムが自分たちの生活や価値観に合っていると信じて疑わない。
新しいシステムに移行するには大きなコストを感じるものである。
新しいシステムには不安やリスクが伴うからだ。
既得権益を持つ集団はなおさらのことだ。
彼らは自分たちの地位や利益を守るために、新しいシステムへの適応や変革を拒否する傾向がある。
戦争や革命でもあれば話は違うが今は失業中の若者を見ても危機感に乏しく、社会全体が変わる必要性を感じていないようだ。
到底急激な変化は見こみ難い。
変化は起こっても、それは徐々で微妙なものであるだろう。
恐らくはあくまでゆっくりと日本的雇用システムは変質して行くことだろう。
日本的雇用システムとは、終身雇用や年功序列、企業内労働市場などを特徴とする雇用慣行のことである。
デジタル社会が所謂”デジタル・ディバイド(デジタル社会についていけない人々)”を生み出していく中でパソコンもロクに使えず、インターネットやSNSに疎い英語も話せないオジサンに自分よりも高い給料を払うことに不満を感じる若年層は増えて行くかもしれない。
彼らは自分たちの能力や貢献度が正当に評価されていないと思うだろう。
かつてのような急激な年功カーブ(年齢に応じて給料が上がって行くその上がり方)を維持することは難しくなっているのもまた事実だ。
日本経済が停滞し、人口が減少し、労働市場が多様化してきたからだ。
生産性が上がらなくなって、付加価値が低下してきた競争力が落ちてきた会社が終身雇用を維持できないというのも悲しいかな、現実的な問題である。
終身雇用制度は高度成長期における日本企業の強みであったが、今では負担となっている場合も多いのだ。
だから日本的雇用システムが現状のまま存続することもないだろう。
時代や環境に合わせて変化する必要があるのだから当然である。
しかし、それは一朝一夕にできることではない。
巷のエコノミストや米国政財界が叫ぶようにそうした遅々とした歩みを嘆き、日本が取り残されると危機を煽り何が何でも早急に変革を起こすべきだと言う論調にも注意が必要である。
彼らの言うことには自分たちの利益や思想が反映されている場合もあるからだ。
ひとつにはそうした緩やかな変化は制度の歴史依存性から見たらごく当たり前の現象であるということでもあるし、制度は一朝一夕に変えられるものではないということでもある。
もうひとつには日本的雇用システム全てが通用しなくなったわけではないということだ。
日本的雇用システムには長所もあるのだから、その長所を生かすことができればまだまだ有効な制度であると言えるのだ。
米国型には米国型の良さがあり、自由や個性や多様性を重視する点などが挙げられ、また日本型には日本型の良さがある。
安定や忠誠や協調性を重視する点などが挙げられるだろう。
日本は自分達に優位なジャンルをみつけそこに勝機を見出すこともできるだろう。
日本は高品質や高技術や高付加価値な製品やサービスを提供することで世界市場で競争力を持つことができるのだ。
今は米国型が主流に見える分権的なビジネスでも、それは必ずしも永遠に続くわけではない。
協力関係を重視したサービスに転換して行くことで日本的雇用が活用できる可能性もある。
日本的雇用システムは社員同士の絆や信頼関係を強化することで、顧客やパートナーとの関係も深めることができるのだ。
やみくもに日本型雇用システムを批判し米国型雇用システムを礼賛する姿勢とは一線を画すべきだろう。
どちらの制度も長所も短所もあるのだから、自分たちに合った制度を選択し、その制度の中で最大限のパフォーマンスを発揮することが大切なのだ。
それは自分たちの幸せや成功を追求することでもある。
そうしたときに参考になるのは、やはり日本の中で先駆的に能力主義の雇用体系を採用したプロ野球とJリーグである。
彼らは自分たちの才能や努力を試す場として、世界的な雇用システムに挑戦してきたのだ。
日本の中で先行的に導入された能力主義の雇用体系でありそれがいかに日本の文化的土壌の中で変化してきたかを考えることはきっと意味があるだろう。
彼らは日本的な雇用システムと米国型の雇用システムの間で揺れ動きながら、自分たちに合ったバランスを探してきたのだ。
例えば、一時期は大ブームを巻き起こした欧米型雇用システムの一例であるJリーグも最近は人気がかげりがちだ。
観客動員数やテレビ視聴率も低下し、スポンサーも減少しているという。
このことは、単純に移植しただけではうまくいかないことを示している世界的雇用システムの日本への移植が必ずしも上手くいっていない証左なのかもしれない。
日本人の感性や価値観と合わない部分があるからだ。
所詮は限られた給与総額の中でいかにスター・プレイヤーに多額の年俸を与えようとチーム全体が活性化していないのかもしれない。
個人主義や競争原理が過剰に強調されると、チームワークや応援団精神が失われてしまうからだ。
例えストイコビッチのような世界的なスター・プレイヤーが一人いても、それだけでは優勝できる訳ではない。
サッカーは11人で戦うチームスポーツであり、一人では何もできないということだ。
結局は優秀なプレイヤーも優秀なチームの中にいてアシストがなければ得点できないということかもしれない。
個人的な能力だけではなく、チームメイトや監督やサポーターとの関係性も重要であるということだ。
このことは、日本社会全体が直面している問題でもある日本が変わっていくためには障害が多いということを暗示しているのかもしれずそうした面では将来に悲観的な観測をもたらすかもしれない。
日本は長年にわたって日本的雇用システムに慣れ親しんできたが、それを変えることは容易ではないからだ。
だが、それは必ずしも悪いことばかりではない。
見方によっては日本には日本に合った雇用システムを導入すべきだという教えなのかもしれない。
日本的雇用システムにも良い点があるのだから、それを捨ててまで米国型雇用システムに追随する必要はないのだ。
一方で、長島茂雄監督の就任やイチロー選手のメジャーリーグ挑戦などの話題で長島人気もあって一頃に比べてプロ野球はまた人気を盛り返しているようだ。
ファンやメディアの関心が高まり、球場の雰囲気も活気づいているという。
楽観的に見れば、その背景には日本的雇用システムの改革や進化が見られるということかもしれない。
その背景には先駆的に能力主義の雇用体系を採用したプロ野球は日本的な要素を多分に取り入れて現在の形に至っている訳だが、それは最終形ということでもない。
プロ野球も時代や環境に応じて変化してきたのだから、これからも変化していく可能性があるのだ。
引退直前のスター選手にいつまでも高い年俸を払う時代ではなくなってくるかもしれない。
年齢や実績よりも現在の能力や貢献度を重視する傾向が強まってきているからだ。
私達一般社会の人々に比べてプロ・スポーツは一歩も二歩も先んじて能力主義社会の洗礼を受けている。
彼らは自分たちの才能や努力を試される厳しい世界で生きており、常に成果を出さなければならないからだ。
昨今のベンチャー・ビジネス・ブームで若くして億万長者に成り上がった人々等はまだ少数派であり、多くの人々は安定した雇用を求めているからだ。
私達はようやくその世界に足を踏み入れようとしている段階に過ぎない。
私達はまだ能力主義社会に対応できる準備が整っておらず、不安や恐怖を感じているからだ。
先達の動向には十分に注意を払いたいものだ。
彼らは私達がこれから直面するであろう問題や課題を既に経験しており、その解決策や教訓を示してくれるからだ。