1999年度には、企業部門全体で20兆円を超える黒字が記録された。この巨額の黒字は、企業が資金を積極的に運用せず、内部に蓄積した結果である。
当時、経済の中で唯一積極的にお金を使う意欲を見せていたのは政府部門だった。政府は景気後退を打破するため、公共投資を積極的に推し進めていた。
公共事業やインフラ整備に投じられた資金は、経済の停滞を和らげる一助となったが、同時に、国の財政に重い負担をかけることにもなった。
その資金は、国債の発行を通じて市場から調達された。国債は、政府が必要とする資金を集めるための主要な手段であり、市場に安定した投資先を提供する役割も果たした。
しかし、1999年度には、中央政府と地方自治体を合わせた債務残高が、国内総生産(GDP)に匹敵する規模にまで膨れ上がっていた。この債務は、約50兆円もの資金調達によって賄われた。
この莫大な債務の累積は、たとえ過去の借入の利子を支払うためだけだとしても、新たな借入を必要とする状況を生み出している。
この状況は、まるで雪が降り積もるように負債が膨らむ「雪だるま式」の危険な状態に例えられる。債務の増加は、将来の財政健全化をますます困難にする。
ここまで、経済全体の資金の流れ(フロー)について述べてきたが、この流れだけでは「お金が余る」という現象の全体像を捉えることはできない。
確かに、毎年わずかながら資金が余っているように見えるかもしれない。しかし、その「余り」が真の意味で経済に余裕をもたらしているとは言い難い。
たとえば、巨額のローンを抱えた個人が、今年は消費を控えて借金を返済したとしても、経済学では借金は「マイナスの貯蓄」とみなされる。このため、返済が進んだとしても、十分な資金があるという実感は得られない。
多くの人々が、借金の返済に追われながらも、将来の不確実性に備えるために貯蓄を増やしている。この行動は、個人の合理的な判断としては理解できるが、経済全体では需要の縮小を招く。
つまり、資金の余剰が必ずしも経済的な豊かさや繁栄を意味するわけではない。資金が「余っている」という状態は、資産と負債のバランスが複雑に絡み合った結果にすぎない。
それでも、数字だけを見れば、日本は決して貧困な国ではない。個人の金融資産は、総額で約1300兆円に達すると推定されている。
この金額から負債を差し引いても、純資産は約1000兆円に上る。単純に人口で割れば、一人当たり約800万円の金融資産を保有している計算になる。
この数字は、あくまで金融資産に限定したものであり、土地や不動産などの実物資産を含めれば、国民全体の資産はさらに膨大な規模となる。
しかし、この巨額の資産が均等に分配されているわけではない。高齢者層や富裕層に資産が集中する傾向があり、若年層や低所得層の資産保有額は相対的に少ない。
一方、民間企業もまた、資産と負債のバランスにおいて、複雑な状況を抱えている。企業の負債総額は、資本を含む形で約600兆円に達するとされる。
この負債には、土地や設備などの実物資産は含まれていないため、実際の負債規模はさらに大きい可能性がある。企業は、資金を借り入れて事業を拡大する一方で、将来の不確実性に備えて内部留保を増やす傾向にある。
政府部門もまた、GDPに匹敵する約400兆円の債務を抱えている。この巨額の債務は、公共投資や社会保障の財源として使われた結果である。
それでも、日本は全体として純債権国であり、海外に対して約90兆円の金融債権を保有している。この事実は、日本が国際的に見ても「お金持ち」な国であることを示している。
しかし、こうした巨額の資産が存在するにもかかわらず、すべての国民が豊かさを実感しているわけではない。資産の分布は極めて不均衡であり、富裕層と非富裕層の格差が顕著だ。
個人の金融資産の蓄積は、30~40年にわたる労働の結果や、住宅ローンの返済状況、高齢化による貯蓄の増加など、さまざまな要因に影響される。
バブル期に土地を保有していた資産家と、そうでない層との差は、依然としている。
富の海に浮かぶ不安の島々――なぜ豊かさの裏で我々は未来を恐れるのか?
バブル経済の崩壊後、土地価格の急落は多くの資産家にとって大きな打撃だったが、その影響は一部の富裕層に限らず、中間層にも波及し、資産価値の目減りが家計の不安を増幅させた。
個々の金融資産の分布を見ると、30~40年にわたる労働の蓄積や住宅ローンの返済状況、高齢化による貯蓄傾向などが影響を与えているが、バブル期の土地バブルがもたらした資産格差は、今なお日本社会に影を落としている。
確かに、「お金が余っている」と言われても、多くの人々はその実感を持てない。巨額の資産が存在する一方で、経済の停滞や雇用の不安定さが、人々の消費意欲を抑えているのだ。
しかし、もし本当にお金が余っているのであれば、欲しいものを躊躇せずに購入するはずだ。経済学の基本原理では、需要と供給が経済を動かすが、現代日本では需要の低迷が資金の滞留を招いている。
当然、子供や孫のために資産を残したいと考える人々は、貯蓄を優先する傾向にある。この行動は、将来への備えとしては合理的だが、経済全体の停滞を助長する。
それでも、お金は使われることで初めてその価値を発揮する。貯蓄されたお金は、単なる紙切れや通帳の数字に過ぎない。
お金の価値は、それが市場で循環し、商品やサービスの購入に使われる瞬間においてこそ、初めて実感されるものだ。貯蓄だけでは、経済の血液は流れず、停滞する一方である。
それでもなお、節約を続ける人々がいるのは、老後の生活資金が不足するのではないかという根深い不安があるからだ。この不安は、デフレ経済の長期化によってさらに増幅されている。
たとえば、あなたの手元に「余剰資金」はあるだろうか? 多くの人は、確かに多少の現金や預金を持っているかもしれない。
保険金や年金などの金融資産も、ある程度は蓄積されているだろう。しかし、これらの資金は、将来の不確実性に備えるための「守りの資産」として扱われることが多い。
子供の教育費、住宅購入のための頭金、老後の生活費など、特定の目的のために取っておかれる資金は、すぐに消費に回されることはない。
このような資金は、経済学的に見れば「貯蓄」として計上されるが、個人の実感としては「余っている」とは感じられない。なぜなら、これらの資金は将来の大きな支出に備えた「必要経費」だからだ。
さらに、将来を考えると、「今、余剰資金がある」と感じる人は少ない。国家財政の悪化や増税の可能性が、こうした不安をさらに煽っている。
国民年金の持続可能性に対する懸念や、民間年金基金の収益率の低さも、将来への不安を増大させる要因だ。退職後の生活費や医療費の増加も、人々の貯蓄志向を強めている。
加えて、寿命の延長は喜ばしいことではあるが、同時に老後の生活資金の必要額を増やし、個人の経済的負担を重くしている。
すべての人が「お金が余っている」と感じているわけではない。たとえ職場が安定していても、雇用の先行き不透明感は根強い。
もし職場が安定していれば、将来に向けて貯蓄を増やすことも可能だし、定年後も何らかの形で収入を得られれば、生活は楽になるかもしれない。
しかし、デフレ経済の長期化は、雇用の安定に対する不安を増幅させ、消費を控える心理をさらに強めている。失業のリスクは、常に人々の心に影を落としている。
ある経済理論によれば、定年退職時に必要とされる資金は約5000万円とされている。この数字は、現代の生活費や医療費の高騰を考慮すると、決して過剰な見積もりではない。
この観点から見ると、国民一人当たり約800万円の金融資産では、老後の安心を確保するには不十分だ。多くの人々が、現在の資産では足りないと感じている。
実際、周囲を見渡しても、「十分な余剰資金」を持つ人はそう多くない。経済の停滞と将来の不確実性が、人々の財布の紐を固く締めさせている。
このため、「お金が余っている」と言うのは、実際の生活実感とは乖離している。むしろ、多くの人は「もっと貯蓄しなければならない」と感じている。
個人が貯蓄に走ることは、経済全体で見れば逆効果だ。誰もが貯蓄を増やせば、消費が減少し、投資の機会も失われる。
個人の節約行動は、短期的には賢明な選択に見えるかもしれない。しかし、すべての人が同じ行動を取れば、経済全体が縮小し、成長の機会が失われるというパラドクスが生じる。
節約を奨励すること自体は悪いことではないが、全員が消費を控え、資金を使わなければ、経済はさらに悪化する。この悪循環が、デフレ経済の核心的な問題だ。
一方、アメリカの経済は対照的だ。アメリカでは、消費が旺盛で、貯蓄率が低いことが経済成長の原動力となっている。
アメリカの家計は、借金をしてでも消費を続ける傾向があり、これが経済の活力を維持している。ただし、過剰な消費が債務危機を招くリスクも潜んでいる。
「お金は天下の回り物」という言葉があるように、資金は使われてこそ経済を活性化させる。貯蓄だけでは、経済の血液は滞り、成長は停滞する。
全員が積極的にお金を使えば、経済は活気づき、投資や雇用の機会も増えるだろう。しかし、日本ではその逆の傾向が続いている。
明らかに、私たちは「お金の余剰を実感できない」時代に生きている。資金が市場に溢れているにもかかわらず、人々は不安に駆られ、消費を控える。この矛盾こそ、現代日本の経済が直面する最大の課題なのだ。
富の海に沈む希望の欠片――余剰資金の謎と経済の停滞が織りなす現代日本のジレンマ。
確かに、数字の上では資金が溢れているように見える。市場には巨額の資金が流れ込み、銀行の金庫や企業の内部留保として滞留している。
しかし、この潤沢な資金は、まるで未来の不確実性に備えるための「保険」として、ただ静かに眠っているに過ぎない。すぐに使うべきではないとされるこのお金は、経済の血液として循環する機会を奪われている。
経済が上向きに転じれば、新たな収入源が生まれ、資金を活用する機会も増えるかもしれない。しかし、現在の経済状況は楽観視できるものではない。
デフレーションの長期化と雇用の不安定さが、人々の消費意欲を抑え、経済全体の停滞をさらに深刻化させている。
では、誰がこの「過剰な資金」を使うのだろうか? 誰もが消費を控え、貯蓄に走る中で、資金はただの紙切れ同然の存在になりつつある。
使われないお金は、経済の中で何の価値も生み出さない。資金が動かなければ、経済の歯車は錆びつき、成長は遠のくばかりだ。
お金が豊富に存在していても、それが市場で活用されなければ、何の成果も生み出さない。資金は、投資や消費を通じて初めて経済に活力を与えるのだ。
預金の金利が付与されるのは、預かった資金を金融機関が投資や融資に回し、新たな価値や生産を生み出すからこそだ。
使われない資金は、経済の生産性を高めることなく、ただ銀行の帳簿に数字として残るだけだ。このため、金利が生まれず、資金の価値は停滞する。