赤本・貸本漫画ブームと週刊誌のラッシュで空前の漫画ブームが到来

漫画

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 終戦直後から1950年代半ばまでは、昭和になってジャンルとして確立された「紙芝居」の全盛期である。紙芝居は、詳細な絵と文章で構成される表現形式である。紙芝居の発展形であり、技術的には当時流行していた街頭紙芝居に根ざしているが、内容的には戦前・戦中に流行した児童小説の戦後再生であった(清水, 1991)。


そんな中、戦後のドサクサにまぎれていた数社によって、赤本漫画という出版事業が立ち上げられた。赤本漫画は、漫画と絵物語という二つの表現形式を組み合わせたもので、内容的には旧来の漫画のスタイルを踏襲したものが多かった。手塚治虫の充実した「新宝島」は、大阪の赤本ブームのきっかけとなり、東京にも波及していった。アメリカのアニメーションの影響を強く受けた手塚は、その映画的手法を漫画に持ち込み、ここに戦後日本の漫画の主流となったストーリー漫画が誕生した(清水, 1991)。


戦後最初の人気漫画『サザエさん』(長谷川町子)は、大人だけでなく少女たちからも支持された。少女雑誌では、戦前の「可憐」「儚げ」から、戦後の「健康的な明るさ」「ファッショナブル」へと変化し、「オテンバ」「笑い」がキーワードとなる。キーワードは "おてんば "と "笑い "だった。"あんみつ姫"(倉金章介)、手塚治虫の西洋ファンタジー "リボンの騎士 "がヒットした。1955年、低学年向けの月刊少女雑誌「なかよし」「リボン」が創刊された。


この頃から、少ないながらも女性作家が少女雑誌に登場するようになる。双子をモチーフにした「やまびこ少女」(渡辺真起子)、バレエ漫画「マキのくちぶえ」(牧美也子)、西洋ファンタジー「星のタテゴト」(水野英子)などがそれである。男性作家とは異なる華やかなイラスト、少女心理の細やかなタッチ、ファッションや小道具へのこだわりは、当時の読者を魅了した(米澤, 2001: 79-80)。


またこの時期、藤子不二雄、赤塚不二夫、石森章太郎らが伝説のアパート「常盤荘」に住んでいた。当時まだ若手漫画家だった彼らは、後に「ドラえもん」「天才バカボン」「仮面ライダー」などの名作を次々と生み出し、近代漫画の隆盛を支える巨匠となる。


1950年代は戦後初の漫画の黄金期で、月刊誌が目立つようになる一方で、少年小説や児童文学が衰退していく時代だった。赤本漫画も1948年頃がピークと言われ、1950年代後半には貸本屋が登場するようになった。最盛期には全国に2万~3万店あったといわれ、新品の漫画や雑誌を安く提供するレンタルショップのようなものであった。徐々に漫画の値段が高くなるにつれ、貸本屋の利用も増えていった。この貸本に対して関西で生まれた劇画が、手塚的ストーリー漫画に代わる表現として注目され、1960年代後半から1970年代にかけての劇画ブームにつながった(清水, 1991)。


(2) 週刊誌の創刊ラッシュ


1960年代に入ると、戦後2度目の漫画ブームが起こる。月刊から週刊の時代に移行した日本の漫画界に、1959年、日本初の児童向け週刊誌『少年マガジン』『週刊少年サンデー』(以下、『少年サンデー』)が登場する。同年、少女向けの『週刊少女フレンド』『週刊マーガレット』も創刊されたが、現在に至るまで月刊少女誌の方が健闘している。1963年、日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」の放映が開始された。翌年には東京オリンピックの開幕を控え、一般家庭へのテレビの急速な普及に伴い、アニメ産業も活発化した(清水, 1991)。


戦後から1960年代前半までの少年漫画の世界は、戦前から続く、大人から理想とされる少年を主人公にした絵物語という流れを汲んでいた。スポーツを題材にした『イガグリくん』(福井英一)や学校を舞台にした『ハリスの旋風』(ちばてつや)などは、暴力の痛みや悲惨さ、陰謀や裏切りの醜さは描かれていなかった。しかし、梶原一騎のブレイク作『巨人の星』(1966 年)により、戦後の少年漫画が築き上げた「良い子」の世界は崩壊し、ここに「スポーツ漫画」というジャンルが確立された(加納、1996:17)。


1960 年代半ばの『ガロ』(1964)の創刊の背景には、「右手に雑誌、左手に雑誌」という言葉に象徴されるように、「漫画青年」の台頭と学園紛争の勃興がある。この時期、カウンターカルチャーの意味合いが強かった漫画は、若者を中心に幅広い読者層を開拓した。少年漫画の世界では、1968 年の『ハレンチ学園』(永井豪)でタブー視されていた 性が解放され、同年の『あしたのジョー』(高森朝雄・ちばてつや)では、主人公が見えない明日を探し、平穏無事に生きることを拒んだ(加納、1996:17-19)。


一方、1960 年代の少女漫画では、「スポーツ根性漫画」が流行し、ホラー漫画の "黒猫仮面"(楳図かずお)、"アタック No.1"(浦野千佳子)、"サインは V!"(神保史郎、望月昭)などである。しかし、主流は西洋風の世界を描いたラブコメや恋愛ものだった。1970年代前後には、同性愛や近親相姦などをテーマにした文芸作品が登場するなど、少女漫画にも変革期が訪れます。ポーの一族』(萩尾望都)、『綿の国星』(大島弓子)、『風と木の詩』(竹宮惠子)などを生み出した革命家たちは、1949 年前後に生まれた者が多いことから「花の 24 年組」と呼ばれた(米澤、 2001: 81-83)。



(3) 空前の漫画ブームの到来


1970年代、少年漫画の世界は大きく2つの流れに分かれた。ひとつは、熱血という方程式だけを頼りにドラマを展開し、極限までエスカレートさせる漫画である。1972年に『アストロ球団』(遠藤四郎、中島徳博)、1973年に『包丁人味平』(牛次郎、ビッグロック)が『少年ジャンプ』に掲載された。もうひとつは、1972年の『ドカベン』(水島新司)と『キャプテン』(千葉昭夫)で、柔道と野球を不自然な命の奪い合いではなく、人間ドラマとして描いている(加納、1996:22-25)。


70年代後半には、『すすめ!パイレーツ』(江口寿史、1977)、学園漫画『1・2の三四郎』(小林まこと、1978)などがヒットした。そして、1978年の『空飛ぶカップル』(柳沢みきお)や『うる星やつら』(高橋留美子)、1980年代前半に登場した『タッチ』(あだち充、1981)などが、1970年代後半から1980年代の少年誌のラブコメの代表作となった。


1970年代は、団塊の世代に対応するため、青年誌や成人誌が次々と創刊された時代であった。10年ほどの歴史を持つ『少年サンデー』や『少年マガジン』も、読者層を小中学生から高校生・大学生へとシフトしていった。1970年代のエロ劇画ブームと並行して、1970年代末から1980年代にかけては、前述のように少年誌でラブコメが大ブームとなる。この流れから枝分かれして、1980年代のロリコン漫画ブーム、そして1990年代の有害コミックブームへとつながっていく。


一方、週刊誌では少女漫画は定着しなかったものの、『アリエスの少女たち』(里中満智子)、『はいからさんが通る』(大和和紀)、『ベルサイユのばら』(池田理代子)、『エースをねらえ!(山本鈴美加)が大ヒット。(山本鈴美香)。"乙女チックなラブコメ "も同時期に「りぼん」を中心に展開された。陸奥A子、田渕由美子らの作品や、『キャンディ・キャンディ』(水木京子、五十嵐由美子)などが人気を博した(米澤, 2001: 83)。


また、1970 年代は、「コミック」誌の創刊ラッシュにより、少女誌に空前の漫画ブームが到来した。1974 年に創刊された『花とゆめ』を皮切りに、少女漫画誌が増加した。現在も連載が続いている『ガラスの仮面』(美内すずえ)や『王様の紋章』(細川智栄子)の連載が始まったのもこの時期だ。また、『スケバン刑事』(和田慎二)、『エロイカより愛をこめて』(青池保子)、『ヒデテノコの天子』(山岸凉子)なども刊行され、この時期は少女漫画の黄金期となった(米澤, 2001: 84)。

 (4) 「少年ジャンプ」の一人勝ち。1970年代後半から『少年ジャンプ』はライバル少年誌の追随を許さず、1980年代には完全に独占的な立場にあった。ライバル誌がラブコメ全盛期を迎える中、「小学生からサラリーマンまで読む雑誌」と言われた1980年代の「少年ジャンプ」は、幅広い年齢層の読者をターゲットにヒット作を次々と生み出していきました。リングにかけろ」(車田正美、1977年)や「キン肉マン」(ゆでたまご、1979年)が若い読者に人気だった一方で、北条司の「キャッツアイ」「CITY HUNTER」などのアクション漫画も登場しました、"きまぐれオレンジロード"(松本泉、1984年)、"電影少女"(桂正和、1988年)など、珍しいラブコメ作品だったこともあり、より幅広い読者層からの支持を得ることに成功しました。


こうして、『少年ジャンプ』の発行部数は、日本の出版史上初めて記録を更新し続けた:1984年に400万部、1989年に500万部、1992年に600万部。これを可能にしたのは、鳥山明の『Dr.スランプ』(1980年)、『ドラゴンボール』(1984年)、『北斗の拳』(武尊・原哲夫、1983年)、『キャプテン翼』(高橋陽一、1981年)、『聖闘士星矢』(車田正美、1988年)といった大ヒット作が小中学生男子のみならず女性にも支持されるようになったからだ。(また、小中学生の男子だけでなく、女性にも大ヒットした『聖闘士星矢』(車田正美、1988年)。原作漫画もテレビアニメも大人気となり、関連商品も多数発売された。漫画は「キン消しブーム」や「サッカーブーム」とともに社会現象となり、子どもの遊びの世界だけでなく、ゲームや玩具、お菓子などの市場にも大きな影響を与えた。


少女漫画の方では、1980年代にレディースコミックが登場する一方で、等身大の女の子の日常生活における心情を描いた青春物語がヒットしました。1980年代前半は、ツッパリ路線の『ハイティーン・ブギ』(後藤由紀夫・牧野和子)、1980年代後半は家族小説が原作の『ホットロード』(ブースキー拓)が圧倒的な支持を得ました。また、1980 年代末には、前世の記憶を題材にした SF 漫画『ぼくの地球を守って』(樋渡早紀)が大ヒットし、同時期に宗教・オカルト漫画も人気を博した(米澤、2001:85)。


(5) ジャンルの多様化と「少年ジャンプ」の失速


1990年代に入ると、ブームと呼べるほどのレベルには達していないものの、さまざまなジャンルでヒット作が生まれるようになった。テレビドラマ化されて話題になった「オバタリアン」(堀田勝彦、1989年)、「クレヨン語問題」にもかかわらず人気を維持した「クレヨンしんちゃん」(白井義人、1990年)などである、"、1990年代半ばには『金田一少年の事件簿』(金成陽三郎・佐藤文哉、1993年)、『名探偵コナン』(青山剛昌、1996年)が人気を集めた(清水, 1999)。1990年代後半は、世紀末の暗い時代や不況の深刻化を反映してか、『ドラゴンヘッド』や『MONSTER』といったシリアスな作品が登場する一方で、『GTO』や『ショムニ』といった単純明快な主人公が、テレビドラマとの相乗効果によってファン層を拡大した。


若い世代では、ゲームを原作として大ヒットした「ポケモン」「遊戯王」などが人気を集めました。アニメの世界では、1998年に「もののけ姫」「新世紀エヴァンゲリオン」が大ヒットし、アニメファンだけでなく多くの若者や評論家からも注目を集めました。1980年代後半からは、アニメやゲーム、テレビドラマなどとの相乗効果で漫画の人気が高まる傾向が顕著になった。


1990年代の漫画界では、1995年に『少年ジャンプ』が漫画出版史上最高の653万部を記録し、そのわずか3年後に『少年マガジン』が『少年ジャンプ』の発行部数を抜いたことが、漫画界の一大イベントとなった。日本経済がバブル期に突入した1980年代後半から1990年代前半にかけては、『少年ジャンプ』も黄金期を迎えていた。先に紹介した『ドラゴンボール』のほか、バスケットボールブームを巻き起こした『SLAM DUNK』(1990年、井上雄彦)、異世界を舞台にした格闘漫画『幽遊白書』(1990年、冨樫義博)、学園漫画『六連星BLUES』(1988年、森田まさのり)、RPGジャンルの名作『ドラゴンクエスト』などがある。ドラゴンクエスト」をモチーフにした「ダイの大冒険」(1989年、三条陸・稲田浩二)、時代劇「るろうに剣心」(1993年、和月伸宏)などがある。


しかし、1974年から24年間、少年誌のトップを走り続けた「少年ジャンプ」は、1997年、「金田一少年の事件簿」「GTO」などのヒットで部数を伸ばした「少年マガジン」に抜かれ、「ジャンプ神話」は崩壊した。少年ジャンプ」の売上は一時350万部程度まで落ち込んだと言われている。少子化で子供の絶対数が減少する中、少年誌は今後も熾烈な生存競争にさらされることだろう。


少女漫画の世界では、1990年代に尾崎南や高河ゆんが「ボーイズラブ」というジャンルを確立し、男同士の直接的な恋愛を描いた作品がカルト的な人気を博した。一方、『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ、1987年)や『美少女戦士セーラームーン』(武内直子、1992年)といった年齢や性別を超えた少女漫画は、小学生を中心に幅広い層から支持され、今また復活している。かつての「少女漫画」の枠組みが見えなくなる一方で、学園もの、ファンタジー、ホ ラー、少年愛など多くのジャンルが独自の読者を獲得した(米澤, 2001: 86)。


(6) 1990 年代における二つの騒動


最後に、1990 年代前半に起こった、「漫画表現」そのものが改めて問われ る二つの騒動について述べたい。


1990年、大阪の「黒人差別をなくす会」という団体が、「差別漫画」に対するキャンペーンを開始した。その中で、手塚治虫がギャグに使っていたアフリカ原住民の「風刺画」も、外国人のステレオタイプな描き方として問題視されるようになった。手塚自身はすでに1989年に亡くなっていたため、出版社は原稿を描き直す代わりに、巻末に「読者へのメッセージ」を掲載することで対応した(Schott, 1998: 58-62)。


同時に、1989 年の連続幼女誘拐殺人事件を背景に、『ANJEL』を含むいくつかのポルノ・コミックが「有害図書」に指定され、社会問題化した。今に限らず、戦後の悪書追放運動も含め、コミックはしばしば非難された。戦後すぐの絵本『少年ケニア』への批判、1950年代の悪書追放運動、1960年代の白土三平の『阿修羅』の残酷でリアルな描写、永井豪の『ハレンチ学園』の性的表現などがそれだ。


しかし、1990 年代の有害コミック騒動は、以下の 4 点で過去と少し異なっていた。第一に、特定の作品ではなく、ポルノ・コミックそのものが問題視されたこと。第二に、従来は中央集権的な民間の運動が地方に広がったが、今回は地方の声が拡大し、全国に広まった。第三に、問題の対象が、戦争や暴力の表現から、差別の表現に変わったこと。第四に、フェミニズム理論の関与により、議論が複雑化したことである(竹内、1995)。


結局、有害コミック騒動は、「表現の自由対規制」という対立構造を背景に、「性的描写は青少年に有害か」という問題に徐々に落ち着き、「ポルノコミックは子どもにとって好ましくない」という規制派の見解と「ポルノ」は女性差別だというフェミニストの主張が混在することになった。騒動は次第に沈静化し、現在に至っている。


しかし、一連の騒動は、戦後の性の自由化、漫画文化の成人化、漫画市場の巨大化といった社会全体の変容と漫画の文化的認識との乖離を浮き彫りにしただけでなく、漫画家の表現に対する意識(無自覚)をも浮かび上がらせたという意味で重要だった。後者は、主にフェミニズムの指摘によるものであったが、社会における「ポルノ」や「性の商品化」の問題を提起した点で重要であった。また、デフォルメされた姿でキャラクターを描く漫画表現そのものを、一種の「記号」として問うことにもつながった。黒人差別の問題も、「単に外国人をどう表現するかという問題を超えて、日本のマイノリティやハンディキャップをどう表現するかという問題にまで及ぶ」(Schott, 1998: 61)と考えられている。 


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