少年誌におけるラブコメディーとファンタジーブーム

漫画

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 「情報化社会」「消費社会」の時代といわれる80年代、60年代以降に生まれた若者は「新人類」とよばれ、「一部センスエリートの姿が、メディアや学者の手によって誇張され」た結果、虚構としての「新人類」論が繁茂する(小谷,1998:184)。


「目新しい『モノ』や、メディアからの情報に依存して人間関係を築いてきた」80年代の若者にとって、「消費を通しての自己確認という80年代文化のパターンは、実は子供時代からお馴染みのものだった」(小谷,1998:186)。70年代から受け継ぐ、大人になることを忌避する「モラトリアム志向」と、他者との関係性に波風を立てない「やさしさ」を備えた若者たちの姿は、80年代のラブコメディーの主人公像に象徴されよう。この時代、社交的で「ネアカ」でハイテク技術を駆使した「新人類」と、競争的なムードの中から脱落し、「ダサい」「クライ」というイメージが付加された「オタク」が注目されるようになった。


70年代に「世界(もしくは社会的弱者)」から「四畳半」の広さにまで収縮した若者の「やさしさ」は、80年代に入ると「互いの自我を傷つけないよう、他者の内面には踏みこまない」(小谷,1998:188)という形へと変わっていった。しかし、80年代前後から注目された「オタク」の名称が、「彼らの『同好の士』への呼びかけに由来していたことから」も示されるように、振り子の針が「連帯」ではなく「孤立」の側に揺れながらも、「オタク」もまた「連帯」を希求する若者たちであった。


70年代半ばごろから、サラリーマン社会や受験戦争の激化が問題視されはじめる。学園紛争が終焉し、二度にわたってオイルショックを経験した時代にあっては、命懸けの戦いや、根性路線のスポーツマンガにみられる「熱く」て「マジ」な主人公よりも、恋愛や人間関係に悩む「やさしい」主人公の方が、「若者」たちの共感をよんだのであろうか。78年の『翔んだカップル』『うる星やつら』は、少年誌のラブコメディーの先駆けとして人気を得、「もういいよ、疲れるから」という理由で主人公が野球をやめた『タッチ』(あだち充,1981)は、80年代初頭におけるラブコメディーの代表作となる。


それらのラブコメディーは、70年代前半の「非日常的」な輝かしさに彩られた「純愛」物語とは異なるものであった。それは、どこにでもありそうな「これってあたし!」的な「関係性モデル」が、少女マンガから5年遅れるかたちで少年誌に展開されていったことを意味する(少女マンガの世界では、「これってあたし!」の物語を描いた「乙女ちっくラブコメディー」が73年あたりから登場している)。70年代以降、社会的文脈を失った少年マンガもまた、ありそうもない経験の代理体験ではなく、現実の「私」やその周りの「世界」をどう解釈するかという「現実解釈もの」へと変質していったといえる。


70年代の『がきデカ』や『マカロニほうれん荘』(1977)では、一見「なんでもあり」の世界に見えながら、同時に「中産階級的な日常性」が細部に渡って描き込まれていた。しかし、70年代末に少年誌に登場したラブコメディー『うる星やつら』は、読み手の現実に言及してくるものではなく、安定した「日常的な異世界」を樹立している。『うる星やつら』の友引町も、『Dr.スランプ』のペンギン村も、現実の我々の世界を揺るがすことのない平和な「異世界」である。ここでは、『がきデカ』に見られたような「現実社会へと開かれた悪意」(ブラックユーモア)は、「小世界の内部で閉じたイタズラ」(ギャグ)へと変化している。そしてそこには、ユートピアの世界で、仲良しの友達同士と戯れつづける「無害な共同性」だけが残ることとなった(宮台ほか,1993:194-195)。


(7)「異世界マンガ」の台頭


そうした傾向は、同時期のスポーツマンガにも見られるようになった。繰り返しになるが、60年代後半のスポーツマンガは、「課題達成」により「社会的上昇」を果たした『巨人の星』や、「課題達成」により「燃え尽き」た『あしたのジョー』をはじめとするスポーツ根性ものであった。ところが70年代前半になると、「ありそうもない非現実的な上昇」が描かれた作品か、運動部のグラウンドで主人公がスポーツに励む「小世界」の中で描かれた作品に人気が集まるようになる。


そして、70年代後半に「熱血」がギャグとして笑われた後、80年代には、『キン肉マン』『キャプテン翼』にみられる「ナンバーワンの選手になる」「みんなで優勝を狙う」などの目標に示されるように、「課題達成」が個人化され、「友情」という名の「無害な共同性」が急上昇する。80年代における、そうした『少年ジャンプ』的スポーツマンガも、前述したラブコメディーも、60年代的な「課題達成」の物語から「サブカルチャー的文脈」へ、つまり「社会」という一般的背景が消失し、「無害な共同性」が持ち込まれたという点では共通していた(宮台ほか,1993:195)。


一方、いわゆるオタク系マンガといわれるような、魔法や剣で主人公たちが強大な敵と闘う「異世界マンガ」が、80年代以降マンガの世界に一般化していった。現実から完全に隔離された「異世界」に生きる主人公を描いた「異世界マンガ」は、関係の積み重ねに基づく「友情」ではなく、「異世界」に関係性を囲い込んで偶発性を遮断することとなる。宮台ら(1993:196)によれば、本来ならば現実世界と離れた時空にあるはずの「異世界」で描かれた「無害な共同性」が、「『僕たちのほしかった等身大の世界がここにある』という感慨を読者に呼び起こすことに」なったという。彼らは「同じ等身大とはいっても『恋愛マンガ』ではなく、現実から完全に遮断された『異世界』の中に『関係の偶発性』が密閉された<無害な共同性>ものだけを、受容した」のである(宮台ほか,1993:196)。


また、大塚(1994:349-350)も「夢見るメディアであるまんがにとって、その『夢』が『未来』でも『今』でもなく『異世界』においてのみ成り立つ」ことの意味は重大であると述べており、その理由について以下のように述べている。



『鉄腕アトム』にしろ『鉄人28号』にしろ、コミックとは未来社会を舞台にしたものであり、それは「未来」に描き手や読者が夢を持てた時代の証でもあった。それがやがて「未来」という夢が見えにくくなり、日常生活や現実に連なるスポーツなどに素材を見出す時代を経て、今日のファンタジー全盛の時代となったといえる。・・・(中略)・・・未来社会は絵空事ではあったが、けれども読者たちとの時間とは地続きだった。スポ根のヒーローもラブコメの主人公も、フィクションとはいえ読者の現実を共有していた。けれどもファンタジーの世界は正にその名の通り異世界であり、読者たちの時間や現実とは隔離された時空である。



我々の現実世界に直接言及してこない「異世界マンガ」のファン層が拡大するにつれ、83年の中森明夫の論評(ただし、大澤,1993による)の影響もあって、「オタク」という言葉がメディアレベルで認識されるようになる。そして、はじめはマンガの中にだけ描かれた「70年代的共同性」(“偶然の同居人”という「希薄性な共同性」)が、80年代以降図らずも現実のものとなっていった(宮台ほか,1993:196)。 (8)「オタク」と現代社会のかかわり


「オタク」がこの社会に登場したのは80年代前後であり、「オタク」という言葉がメディアレベルで使われたのが1983年の中森明夫による論評がはじまりであることは、多くの論者が認めている。その「オタク」について、大澤(1993:211-213)は「オタクという現象を規定するにはあまりに不十分」としながら、以下のように定義づけている。


第一に、オタクとはマンガや「アニメーション、ビデオ、SF、テレビゲーム、コンピュータ、アイドル歌手、鉄道などのいずれかに、ほとんど熱狂的といっていいほどに没頭する人」であること(大澤,1993:211)。「オタクが一般の人々を驚かすのは、この熱狂」であり、「彼らの知識を彩る、意味的な希薄さと情報的な濃密さの交錯」を特徴としてあげている(大澤,1993:211)。しかし、「オタクであるということは、特別な対象に常人を超えた興味をもっているというだけではな」く、「コミュニケーション的な現象」であり、「オタクは、興味の対象となった事物との関係において以上に、他者との社会的な関係の内にその固有性を示す」ことを第二の条件としている(大澤,1993:212)。


1989年に起きた幼女連続誘拐殺人事件で、ビデオ6000本で敷き詰められたM被告の部屋がメディアによって公開されると、自身の「殻」にこもり、他者を拒絶するという「オタク」のステレオタイプなイメージが世間に固定化することとなり、90年代の有害コミック騒動にも影響を与えた。また、この事件を機に、「オタク」がなぜ80年代前後に出現したのか、社会学・心理学・教育学を中心にさまざまなアプローチが試みられた。


しかしながら、「オタク」の定義を明確にすること自体が容易ではなく、依然としてあいまいであることは認めざるを得ない。たとえば、岡田(『コミック学のみかた。』,1997:119)によれば、「『オタク』という言葉は、SFファン同士がイベントで集まる場などで使われる二人称として発生」し、そこに「相手のことを名前ではなく、『オタクとしか呼べない』という否定的ニュアンスが付加された」という。そして、「オタク」とは「何か一つを趣味にしている人々を意味するのではな」く、「これらのジャンルを総括した共通の文化系に生きる種族をさす」と述べている。


いずれにせよ、「オタク」という語は「マンガ」同様、その定義と実態があいまいなまま、しかし確実に、現代社会に浸透していっているものと考えられる。そのことを象徴するかのように、1975年の第1回コミックマーケットの参加者数は、600人程度のものだったが、2000年度開催された夏のコミックマーケットは、3日間でのべ40万人が会場に訪れるほどのビックイベントであった(田並,2001:219)。


コミックマーケットとは、アマチュアによる非営利目的の同人誌即売会のことである。同人誌の販売だけでなく、コスチュームプレイヤーの増加や一般企業の参入など、近年では規模がますます巨大化しており、参加人数も年々増加の一途をたどっている。こうした傾向は、商業誌と同人誌との区別があいまいになるだけでなく、同人誌の世界からプロ作家が出るなど、今や商業出版社もそうした同人誌現象を無視できない状況になったことを示している(ショット,1998:40)。


そのコミックマーケットの多くの割合を占めるのが、「やおいマンガ」である。「やおい」とは「やまなし、おちなし、いみなし」の頭文字をとったもので、少年同士の恋愛をテーマにしたマンガのことを指す。大澤(1993:230)によれば、同人誌で「やおいマンガ」の対象とされる多くの原作は、主人公の「少年」たちには「強大な敵と抗争し」、「主人公は常にある超越性に呼びかけられており」、「やおい族は、この超越性に感応する」。


パロディ同人誌に描かれる「やおいマンガ」は、そのような「異世界」で闘う原作の「少年」たちが織り成す関係を、同性愛的な関係に読み替えたものである。したがって、原作の世界観を前提にしつつも、原作のテーマや設定からはほぼ無関係の位置にある。描き手の好むキャラクターの恋愛や心理描写に重点が置かれ、そこでの「原作」は、同人誌の描き手と読み手とをつなぐ一つの媒体として機能している。

 (9)「遊戯性」と「浮遊性」の時代


90年代の若者たちは、80年代から受け継ぐ「モラトリアム」「やさしさ」に加え、「遊戯性」と「浮遊性」を兼ね備えていた。70年代後半から90年代半ばまで、少年マンガの世界では『少年ジャンプ』の一人勝ち時代が続いていた。しかしバブル崩壊後、上昇志向が強く「友情」で「勝利」する「ジャンプ作品」は、読者にとって説得力をもたなくなった。97年7月28日の朝日新聞夕刊の一面では、「王者『ジャンプ』失速」という見出しのもと、発行部数で『少年マガジン』が『少年ジャンプ』に並んだことが報じられている。その背景には、「強制や圧迫もないが、目標も存在しない」90年代の社会的・文化的「無重力状態」があり、このことは「軽さ」「楽な」モノを至上とする価値体系を体現した若者ファッションや、深夜のコンビニに「たむろ」する若者たちの姿に象徴されよう(小谷,1998:213-214)。


90年代はマンガ界に限らず、個々のジャンルにおいてかつてない盛況ぶりがみられた時代であった。しかし、前述したコミックマーケットに代表されるように、それらは「タコツボのなかでの熱狂」であり、メガヒットはしばしば起こっても一過性のものである場合が多かった(小谷,1998:235)。ジャンルが多様化・細分化した結果、かつてにくらべ全体の見通しがつかなくなってきた。そして、近年の「途方もない情報爆発のなかで」は、「広範な世代的同一性の感覚を喚起しうる『若者文化』はもはや存在」せず、その若者文化の消失が「今日、若者たちの連帯を一層困難なものにしている」(小谷,1998:236)。


90年代は「自分探し」の時代ともいわれるように、少女マンガの世界では「私は誰?」というアイデンティティを問う作品がヒットし、それは前世、クローン、多重人格ブームなどへとリンクする。一方で、若者たちによる阪神大震災後の積極的なボランティア活動や、スポーツ選手の海外における活躍が目立ったのも90年代の特徴である。「『自分らしさ』という観念に強迫的なまでにとらわれて」いる90年代の若者たちは、「社会」の中に「楽しさ」と「自己表現」を見出していった(小谷,1998:214,252)。そうしたことは、日本人の新しい可能性を感じさせる一方、「親と子の友達化現象」にもみられるように、大人と子どもの関係性も、マンガのジャンルも、国や地域といった枠組みも、ボーダレス化しつつある現状を示していると思われる。


「不透明」で「無重力」の現代社会に生きる90年代の若者たちは、バブル崩壊、不況、就職難、世紀末という先行き「不透明」な時代の中で、「閉塞感」を感じずにはいられなかった。90年代半ばのオウム真理教による一連の事件は、現代社会の歪みを象徴するかのようであり、日本中を震撼させた。


そのような時代の中で、一方では97年に大きな話題をよんだアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』『もののけ姫』や、世界の終末を予感させるマンガ『ドラゴンヘッド』のように、そのような混沌とした時代の中でも現実を直視し、生きることの意味を問う作品がヒットする。他方、90年代後半にヒットした『ショムニ』『GTO』や、グループ歌手・モーニング娘。の『LOVEマシーン』などが、時代の「閉塞感」を打ち破るかのように登場する。そして不況が長期化し、新たな指針も打ち出せないまま21世紀をむかえた現在、『フルーツバスケット』(高屋奈月)など癒し系マンガが注目を集めているのである。

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