漫画は時代を映す鏡だといわれるが、その内容や形式の変遷は戦後の日本社会とどのような関わりがあるのだろうか。本節では、それぞれの時代にヒットした少年漫画が、どのような時代背景のもと描かれたのか、また、この点をめぐりどのような議論がなされていたのかを、トピックスごとに検討する。
(1)「秩序回復」から「社会/個人」コードに基づく物語へ
終戦直後、少年雑誌の中心であった少年小説と同じように、少年漫画の物語も、両親の謀殺や科学者による発明の悪用といった「<秩序侵略>に始まり、主人公の<少年>が「強く正しく明るく」という<理想>に即して活躍することによって<秩序回復>がなされて終わる」(宮台ほか,1993:142)というものであった。その「秩序」の中で、将来の日本男児・良妻賢母の予備軍である子どもたちは、「強く正しく明るく」「清く正しく美しく」という「理想」を目指すべき少年少女として、社会的に規定されていたのである。
戦後、回復が目指されるべき「秩序」(社会の正義)が「大日本帝国」から「世界平和」に変わっても、「理想」の実現を媒介とする「秩序回復」という物語構造に変化はなかった。しかし、手塚治虫の『ジャングル大帝』をはじめとしたSF漫画は、非等身大的な領域性の中で「社会秩序」を相対化した作品であった。1949年『大都会』、1950年『ジャングル大帝』をはじめとする手塚の一連の作品にみられるように、それまで少年漫画の世界で疑われることのなかった「秩序」の絶対性は、戦争体験という歴史的背景をもとに、人間社会への根本的な疑いが向けられるようになった。そうした、人間の生命だけでなく、地球そのものを相対化する非等身大的な領域性は、その後手塚の『火の鳥』や、彼を直線的に継承するSF漫画に受け継がれていった。
60年代に入るまで、少年漫画では「理想」とされる「社会」自体を体現した「良い子」の主人公像が描かれており、そもそもそれ以前の時代までは個人が「社会」の外部にあるとは考えられていなかった。しかし60年代に入ると、白土三平が『カムイ伝』(1965)で、「まずしい社会においては、小さな夢のために、大きなことをしなければならない」「そして、この物語の主人公・・・カムイ、正助、竜之進らも、結局、小さなことのために、大きなことをしてきえていったのである」(ただし宮台ほか,1993:148による)と述べているように、「『歴史の時間』の中で相対化される『社会』と、その『相対的な社会』によって翻弄される『小さな個人』という観念とを、同時に導入するという展開が見られた」(宮台ほか,1993:147)。
こうして、60年代半ばごろの少年漫画は、「相対的な社会」と「小さな個人」という「社会/個人」コードに基づく物語構造へと変わっていく。その結果、それまで描かれていた「秩序回復」の物語は、怪獣退治をして人々の平和を守るウルトラマンのような「超人」によって担われることになった。
(2)「課題達成」により「社会的上昇」を果たした主人公
前述したように、60年代あたりから、社会に翻弄される「小さな個人」の主人公が「疎外感」を意識し、「社会」への否定的な意識や「解放」を求めて抵抗する漫画が描かれるようになった。この時代にそのような意識が全面に押し出された背景には、まず「都市と農村の格差や、都市における階級格差を、はっきり目に見えるかたちで意識せざるを得なかった当時の社会状況がある」(宮台ほか,1993:149)と思われる。
もともと、「疎外」意識を明確に抱えた漫画の主人公は、1950年代半ばの貸本劇画に現れていた。その流れを受けて、60年代後半になるとつげ義春『泥』(1966)の登場以降、『ガロ』や『COM』といった雑誌を中心に、「疎外」された者自身の自己表現として読まれうる漫画が出現する。それらは独創的で高度な文学的地平を達し、時代の情念を反映する反文化的な表現として多くの知識人や大学生から注目された(清水,1991)。70年、よど号ハイジャック事件の犯人たちが「我々はあしたのジョーである」という言葉を残して北朝鮮へ去ったように、60年代後半の漫画は日本社会にさまざまな影響を与えうるものであった。
またこの時代、若者たちの間で「30歳から上は信用するな」といわれていたように、「大人たちのようにはなりたくないという成熟を拒否する論理が、強い政治的意味をもちえた時代」(小谷,1998:43)でもあった。60年代半ばのキューバ危機やベトナム戦争は、若者たちに科学や環境破壊に対する批判という潮流を生み出した。“対抗文化”として当時注目されたヒッピー文化は、まさに「成熟の拒否」と「自然への回帰」という若者たちの姿を象徴していた。そして、1961年のベトナム戦争を機に、学園紛争は世界規模で展開されていった。「ベトナム反戦」というスローガンは、「世界の学生たちに、共通のテーマと、国境を越えた世代的な連帯感とを与え」ていた(小谷,1998:27)。
若者たちが「豊かさの世代」であったのに対し、彼らの親の世代は戦争による辛酸をなめ尽くした「欠乏の世代」であった。そして敗戦国の父親たちは、戦後「大人の男」の「権威」を失っていた。学園紛争の攻撃性は学歴社会への反発を背景に、学問と世俗の権威をまとった大学教授へと向けられたのである。そのような全共闘運動について、小谷(1998:68)は「『父親殺し』の儀式であると同時に『父親探し』の旅でもあった」と述べている。
60年代の代表作『巨人の星』(梶原一騎・川崎のぼる,1966)は、「努力がすべてを可能にするという『スポ根漫画』の世界観と、高度成長期の日本社会のエートスの間には、やはりつながりがある」(小谷,1998:107)ことを示していた。しかしここでは、『巨人の星』の主人公が、「父親」に対して嫉妬と憎悪などのむきだしの感情を持ち、物語内では野球を通して父と子の執念のドラマが展開された点にも注目したい。
先の戦争により、「大人の男」としての「権威」を失った「父親」たちは、空洞化した内面を埋めるためにも懸命に働き、戦後の繁栄をもたらすことで「権威」を保とうとしていた。しかし、そのような「父」(大人)に対する「若者」たちの反逆でもあった学園紛争によって、それが「みせかけの権威」であったことを暴かれる。その結果、70年代以降「父親不在」の社会で生きることとなった若者らは、自らが親になったとき「ものわかりのよい両親」として子と接するようになり、今日も続く「親と子の友達化現象」の先頭を走っていくこととなる(小谷,1998)。
そうした中、白土漫画にもみられた「社会(=悪)/個人(=善)」という共通コードは、やがて新たな「大人(=悪)/若者(=善)」というコードに結びつきはじめる。60年代後半の少年漫画では、「ほぼ例外なく下層ないし地方の出身者であり、何らかの『課題達成』を通じて、『疎外』された状況の克服を目指した」主人公が描かれている(宮台ほか,1993:149)。
それは、主人公の「課題」が復讐や犯罪といった非日常の「反社会的行為」によって達成されるのではなく、「真の男になる」という「社会的上昇」によって果たされるようになった点で、50年代の貸本劇画とは異なっていた。たとえば、『巨人の星』や『男一匹ガキ大将』(本宮ひろし,1968)のように、「巨人軍の星になる」「番長になる」といった、あくまでも個人的な「課題達成」が60年代後半の主人公の目標となる。
それらの作品は、田舎出身の「個人」(主人公)が都会で成り上がり、弱者から強者へと成長し「社会」を制覇するという、いわば「逆転の物語」であった。そして、少年漫画の主人公に課せられた「課題達成」は、「社会的上昇」という要素を欠落させ、世間から見ればバカげた個人的な「課題達成」のために、自らを燃焼させるようになる。その典型が『あしたのジョー』(高森朝雄・ちばてつや,1968)であった。勝負に勝つことよりも、何かに命を懸けること自体が主人公の「自己実現」となった物語は、学園紛争が激化するこの時代の若者たちの生き方に共振していたのであろう(宮台ほか,1993:152;加納,1996:19)。
(3)「燃え尽き」てから「純愛」の物語へ
しかし、学園紛争は70年代に入るまでには沈静化する。69年の東大安田講堂事件は、正義だと信じていた全共闘が警察という武装集団の前で挫折したことを意味していた。そして、梶原一騎をはじめとする「命懸け」の「熱血」漫画が少年誌のスタンダードになったころ、72年に浅間山荘事件がおこる。革命戦士を目指していた過激派グループ・連合赤軍が、その内部で内ゲバとリンチ殺人を繰り返していたことが発覚する。こうした一連の事件は、学園紛争の終焉をメディアレベルでもはっきりと認識させることとなった。
漫画の世界でも、『あしたのジョー』の主人公が「命懸け」でボクシングの試合に臨み、最後には真っ白に「燃え尽き」てしまったように、自己目的化された「課題達成」を永久に追い続けることは難しかった。こうした困難さから、70年代に入ると「疎外」からの「解放」を媒介するものとして、「課題達成」にかわり「純愛」が全面に押し出されるようになる。そこでは、「疎外」をもたらしたはずの「社会」という観念はほとんど内実を失っていた。そのころ、ミュージックシーンでは73年『神田川』に代表される「四畳半フォーク」がヒットしており、漫画界でも梶原一騎『愛と誠』(1973)のような「純愛」追求の物語が人気を得る(宮台ほか,1993:152-154)。
(4)笑われる「熱血」
しかし、「日常生活」の中で描かれるそうした「非日常的」な「純愛」も、自己目的化した「課題達成」と同様、長続きはしなかった。学園紛争後の「シラケの時代」と呼応したのであろうか、70年代はスポーツ漫画だけでなく、学園漫画でも「熱血」は漫画の中で切り捨てられるか、ギャグとして笑われるようになる。
70年代後半になると、「スポ根漫画」をギャグにした『すすめ!!パイレーツ』(江口寿史,1977)、熱血している自分を「だってカッコ悪いじゃねえか」と隠す主人公を描いた学園漫画『1・2の三四郎』(小林まこと,1978)などがヒットする。「真の男」「まことの愛」といった「非日常的」な輝かしさは、70年代ではギャグとなって完全に相対化されていった。この時代、「我々はあしたのジョーである」というセリフのような「20歳過ぎての本気のコミットメント」はありえないものとなり、読み手は笑いながらそれをやり過ごすようになる(宮台ほか,1993:164)。
たとえば、60年代に人気を博した赤塚不二夫のギャグ漫画『おそ松くん』『もーれつア太郎』『天才バカボン』では、現実にはあり得ないデフォルメされた「非常識」なキャラクター設定のもと、「日常性」がユーモラスに描かれていた。それに対し、70年代半ばに登場した『がきデカ』(1974)は、当時の小学生の平均像ともいえる「常識的」な主人公が描かれていた点で時代的変化がみられる。
『がきデカ』は、ほのぼのとしたユーモアあふれる作品ではなく、「日常性」の中で「良識」をあざ笑うという、「常識性」を前提にしたブラックユーモアのある作品だった。この漫画は、「日常性の中の微細な差異」に対する感受性に支えられた笑いを初めて創出したという意味で、明らかに「80年代のアニパロ漫画や不条理漫画の先駆となっている」(宮台ほか,1993:158-159)。
(5)社会的文脈の消失と「少年ジャンプ化」
70年代になって、「60年代サブカルチャー」的なものが単に衰退したというわけではない。60年代までは、「大人/若者」「社会/個人」といった共通のコードと、「理想」「上昇」「達成」といった主人公の目的が結びついていたが、70年代に入るとその結合が切り離され、いわば一人歩きしていくようになる。宮台ら(1993:163)は、70年代の少年漫画について次のように述べている。
たとえば「真の男の追及」という課題達成も、「社会」という一般的背景を消失し、かわりに「運動部」や「極道集団」といった限定された文脈へと置きなおされることで、「シラケの時代」の批判的な視線をかわす方向へと展開した。・・・(中略)・・・70年代末になると、「学校の運動部」に舞台背景を限定してさえ、もはや「真の男」の類の共有された<理想>を持ち出すのは困難になり、かわりに「夢の実現」や「成長」へと<課題達成>が「個人化」されるのである。
60年代における「若者」が「社会」の中で見出そうとした「理想」追求の物語は、70年代になると「社会」ではなく、「運動部」「極道集団」といった限定された「小世界」の中での「課題達成」に取って代わられる。70年代前半のスポーツ漫画では、「ありそうもない非現実的な上昇」が描かれた『アストロ球団』や『包丁人味平』、また『キャプテン』のように学校のグラウンドで主人公が部活に励む作品などに人気が集まるようになる。
『アストロ球団』では、野球の試合で死亡者や再起不能者が続出し、『包丁人味平』では、料理の世界で必殺技が飛び交う命懸けの勝負が展開されるが、そこに描かれるドラマには現実感が失われていた。また、普通の中学生たちが野球をする『キャプテン』では、魔球も天才児も登場せず、部活という「小世界」の中で「普通」の野球ドラマが展開された。いずれの作品も、60年代の漫画にはみられた「社会」という存在が作品の背後から消えている。
このように、社会的文脈が喪失することによって、70年代以降の「課題達成」や「純愛」をモチーフとする漫画は、60年代のような実生活における「理想」を提示する機能を失った。そして80年代に入ると、スポーツ漫画は「熱血」でも「根性」でもなく、主人公が追い求める個人化された「夢」をモチーフとするものへと移行し、誰もが賞賛するしかない「友情・勝利」という形式と結びつき始める。
こうして、「60年代的サブカルチャー」的な「課題達成」漫画は、大きく2つの流れに分かれていった。一方では、社会的文脈を脱落させることで、70年代末以降の「友情・努力・勝利」という『少年ジャンプ』の編集方針に見られるようなストーリーへと直結していく。他方、「60年代的サブカルチャー」とは完全な異質なものとして、70年代半ば以降に上昇を開始する「閉じた日常性」の意識の延長線上に展開されていく。それが、80年代において少年誌で大ヒットしたラブコメディーと、オタク系漫画を含めた「異世界漫画」であった(宮台ほか,1993:163-164)。